伊藤計劃「ハーモニー」
21世紀後半、「大災禍」と呼ばれる世界的な混乱を経て、人類は大規模な福祉厚生社会を築きあげていた。医療分子の発達で病気がほぼ放逐され、見せかけの優しさや倫理が横溢する“ユートピア”。そんな社会に倦んだ3人の少女は餓死することを選択した―それから13年。死ねなかった少女・霧慧トァンは、世界を襲う大混乱の陰にただひとり死んだはずの少女の影を見る―『虐殺器官』の著者が描く、ユートピアの臨界点。第30回日本SF大賞受賞、「ベストSF2009」第1位、第40回星雲賞日本長編部門受賞作。
85点
伊藤計劃の最高傑作であり、数々の賞を受賞した遺作。
緻密に組まれた世界観は、SFファン心理に突き刺さる。
まず小説内に構築された生命至上主義社会のディテールがすさまじい。
今までも同じような世界観を背景にした作品は多くあったが、その形成や構造にかなりの不自然さを感じることが多かった。
しかし、この作品の「大災厄」を起因とした医療合意共同体である生府(ヴァイガメント)と生命主義(ライフイズム)の成立に違和感はない
従来の政府も機能しながら製薬会社ではなく、医療思想が政治思想まで昇華され統一た生府による実質統治という世界観は、現代との地続きである未来としてリアリティがある。
体内に入れられた管理ソフトを象徴とする、高度医療社会であり管理社会である未来のあり方に疑問を呈するのが、3人の少女という構図もまた素晴らしい。
桜庭一樹を彷彿とさせる思春期の少女の心の揺れを、サイバーパンクとして描いたこのアンバランスな個と社会の対比が、この作品の一番の見どころでもある。
この対比は物語の根幹のテーマでもあり、それを内包した形での「ユートピア」もしくは「ディストピア」か重く考えさせられるラストまで、一貫して伝えられる。
またサスペンス・ミステリとしても重厚。
健康管理社会への反抗として自殺を図る霧慧トァン、御冷ミァハ、零下堂キアン。
しかし成功したのは御冷ミァハだけだった。
そして霧慧トァンは成長し、健康思想のない紛争地帯で交渉する螺旋監察官となり、酒・たばこなどの違法品を嗜みつつも社会に適合していた。
そんな中、「全世界で何千人もの人間が同時に自殺する」という生命至上主義社会を脅かす大事件が起こり、未曾有の混乱の中、捜査を始める霧慧トァン。
インターポールや父・霧慧ヌァザ、そして見え隠れする御冷ミァハの影…さまざまな人物の思惑が絡み合っていく。
このあらすじだけでもかなり作りこまれたミステリである事がうかがえる。
実際、SFファンだけでなくミステリファンでも納得できる内容だ。
独特の感性で描かれる衝撃のラストまで、非の打ちどころのない内容。
ラストのオリジナリティあふれるメッセージは、病床にいた作者でなければ描けなかった内容とも感じる。
キャラクター、物語、世界観、メッセージ、ストーリー。
それをとっても完璧で、潔癖症的な印象すら受けるこの作品。
伊藤計劃という人物を失ったのは、SF界にとって非常に大きな損失であることは間違いない。