井上夢人「オルファクトグラム」
「ぼくの鼻は、イヌの鼻!?」殺人者の襲撃に遭い、頭部を強打された後遺症で“匂い”を失った「ぼく」こと片桐稔は、その代わりに凄まじい“嗅覚”の世界を獲得する。この尋常ならざる異能を用いて、殺人者に殺された姉の仇を討つことはできるのか?「このミステリーがすごい!」2001年版第4位に輝いた傑作、ついにノベルス化。
(「BOOK」データベースより)
84点
この物語は嗅覚に異常を持った主人公・片桐稔が、異常嗅覚を武器に殺人犯を追い詰めていく話である。
…と書くと凄まじく陳腐に感じるが、実際にそういった話。
しかしその肉付けの仕方が圧倒的で、凄まじいパワーを持って小説の世界に引き込んでくる。
とにかく面白い。
問題点も無くは無いが、それはラスト付近に起因する問題が多く、ラストまでのパワーは凄まじい。
正直、長編でここまで冗長さを感じずに引き込まれたのは久しぶりだ。
まずこの物語で目を引くのが、嗅覚異常に関する徹底したリアリティと凄まじい描写である。
稔は姉を殺され、その現場で殺人鬼に頭を殴打される。
その時を境に、彼の周りには不思議な粒子が"見える"ようになる。
犬と同じ程度の嗅覚を手に入れた主人公の戸惑いは非常にリアリティがある。
盲目の人が目が見えるようになった時に、物の境目が分からないという。
彼は匂いによって世界を見れるほどの能力を手に入れたにもかかわらず、その境目も分からなければ何が起こっているのかもわからない。
生まれたばかりの赤ちゃんの目のようなものを、急に嗅覚という退化した機能の異常によって得るのである。
稔はこの能力を失踪したバンドのベース探し、そして姉を殺した犯人探しに使う。
しかしその世界の情報量を稔は理解できない。
そんなもどかしい所から、稔は徐々に自分に与えられた情報が何なのかを得ていく。
その一方で殺人犯の描写並行して進んでいく。
"彼"という一人称で描かれる犯人の不可思議な行動、そして犯行。
このパートが全体をきりっと締めている。
そしてマスコミや警察も登場してくる。
能力を持ちながら隠していく、という展開の話が多い中で、この流れは思い切っていて面白い。
ラストもその延長にあるが、個人的には好きなラストである。
ただ謎解き要素を全て投げ出したのはいただけない。
スリリングな後半、そして複雑な伏線。
それをほっぽり出して、というか端折って、ラストへと続く。
殺人鬼に関して謎とされていた部分の放棄は特に痛い。
叙述トリックすらありそうに感じる引きがいきていない。
それでもこの小説は間違いなく面白い。
主人公、そしてその周囲のキャラクターにも好感が持てるし、マスコミの書き方にも偏見が無い事が逆に新鮮。
匂いで物を見れるという事が持つ意味まで踏み込ませる、恋人マミの存在も見事。
そして最も難しい"別の感覚で世界を見る人の主観"を、文章表現で見事にやってのけている事には脱帽だ。
コウモリや犬の擬人化は出来ても、彼らの見ている想像を絶する世界を描く事は非常に難しい。
美しい結晶の集合体として描かれる匂いの世界は、この小説一番の見所だと思う。
残酷でリアルな話だが、どこかにやわらかく優しい視点を感じる本作。
是非、一読の価値はあると思う。